武力は人を幸せにするか

今年も終戦の日がやって来た。
この時期は日本各地で平和について考える機会が増える期間だ。
テレビでは戦争の悲惨さを紹介したり、二度とあのようなことを起こさないように、などという趣旨の報道が増え、夜は火垂るの墓が放送されるのが通例だ。僕はあの映画を見ると悲しくなるから10年以上前から観ていない。
当然ながら、人が人を傷付け合うということはあってはならないが、ではそういうことが起きないようにするためには何が必要かと考えると、やはり僕は一定水準の武力を持つことが効果的だと思っている。

誰もが穏やかな心で、人種・性別・年齢などの要件で差別されることなく、お互いを尊重し合い、武力に頼る外交が必要ない世界。それが理想と考える人もいるし、共産主義や社会主義の究極的な目標はそういう社会だ。僕だって本音は、そういう世界に生まれたかった。だが、今の人間がそういう社会を構築するのはハッキリ言って不可能だ。

遥かな昔から続いている、人間の遺伝子に刻まれている野性的な習慣を完全に消すことはできない。暴力や野心や肉体的快楽や依存性、人間はそういうものに囚われ、己を見失いやすい生き物だ。話し合いで問題解決ができればとっくにできているが、現状はできていない。そんな生物学的に不安定な生き物が、どのようにして恒久の平和を実現することができるだろう。
もしそういう平和が欲しければ、僕は同じ思想信条を持つ人たちと一緒に世俗的な人間のコミュニティから離れ、新たなステージへ行くしかないと思っている。

非現実的な妄想はここまでにして、とにかく世の中には様々な人がいる以上、彼らに対処しながら丁度良い塩梅を探っていく必要がある。
ひさしを貸したつもりがいつの間にか母屋を取られていたり、100回つかれた嘘が真実として大衆に広まったり、言葉が通じないからという理由で相手の違法行為を見逃していたり、ずる賢い話術によって純粋な人々が財産を騙し取られるようなことを許していれば、いつしかその国はサイレント・インベージョン(静かなる侵略)によって滅ぶ。
そのような侵略的行為を防ぐために今必要なのは、強力な効果を備えたスパイ防止法と、自存自衛のための力をつけることだ。その中には、確かな国防のための武力も含まれる。
残念なことに、お互いの力関係を分かりやすく示すことで、初めて色々と理解してくれるような原始的な考えを持つ人たちも同じ時代に存在しているから、そういう人たちのための武力でもあるんだ。

強力な武力を手中に収めているが故にいつでも戦争を起こせるという体制を作るのではなく、その武力を抑止力として争いを起こさないようにするのが正しい力の使い方だ。そういう使い方をコントロールするためには、そこに携わる各人の人間性の質が重要なんだ。
だから選挙で議員を選ぶ時は、その人は本当に自国や自国民のために働いてくれるかということをよく考えることが大切だ。世襲は悪いことではないが、やはり何代にもわたってそういうことが続いていると、権力の腐敗や候補者の質の低下が起きやすくなる。僕の故郷の国政選挙なんて毎回酷いもんだ。早く世代交代が起きて、新しい風に変わってくれるよう願っている。

どのような出来事であれ起こるべくして起こり、歴史は作られていく。
そうした中で感じる自虐的史観や過ちや反省といったものは一過性のもので、最終的に人は前を向いて歩いていくことになる。
過去に囚われずに歴史を前向きに受け止め、新しい時代の人々だからこそできることを考え実行していくことが、安定的な平和への近道だと僕は考えている。