狂壱が両腕を広げると同時に、ノアは彼の懐に突進した!
「特効薬ちょうだいっ!」
狂壱は彼女のタックルを絶妙な距離でかわすと、行き過ぎた彼女の背中を後ろから抱え込み、その首筋を軽く舐めて囁いた。
「美しい……」
「ヒィッ!?」
ノアは全身に鳥肌が立つのを感じた。すかさず彼女の反対側の首筋を彼の指がなぞる。
「それにいい反射神経をお持ちだ。人間にしておくのは惜しい」
「な、なに言ってるんだ!」
狂壱の愛撫を振り払うかのように、ノアは身体を回転させ、彼の顔面に向けて回し蹴りを放った!それは彼の腕に受け止められたが、彼女はひるむことなく体勢を立て直し、すぐさま再び立ち向かっていった。
次に円舞に加わったのはとみだ。果敢にノアが攻めている横から片手で刀を操り、もう片方の腕はいつでも太刀を振るえる用意をしている。
その刃が狂壱の顔をかすめた。彼の髪の毛の何本かが、はらりと床に落ちる。
考えてみれば、この身長150cmにも満たない身体のどこに、鋼鉄の塊を自在に扱う筋肉が隠されているのだろう。
「……あなたもそうですか」
狂壱は意味深に呟くと、指を鳴らして合図をした。
その瞬間、とみの腕や腰に人のような影がまとわりついた。それらは次第にはっきりとした色と形を得て、彼女の動きを封じた。とみが驚いた様子でそれらを見る。
それらは子供の姿をしたマネキンのような存在だった。白いドレスの少女と喪服を着た少年。彼らはとみを羽交い締めにし、彼女の肌に噛みついた。
「あうっ!」
鋭い牙の感触に、とみの口から悲鳴が漏れる。闇から生まれた子供たちは、無邪気な様子で彼女の血を啜った。
「少し加減しておきたまえ。その方は『特別』だ」
狂壱は子供たちにそうたしなめると、ノアのほうに向き直り、彼女に優しく問いかけた。
「そろそろ疲れていませんか?」
「なんの!まだまだいくよ!!!」
彼女に呼応するかのように、再びちょうまの弾丸が狂壱の脚めがけて発射される!それは彼のくるぶし付近に見事に命中した。だが彼はわずかによろめいただけで、依然としてノアとの舞踏を止めようとはしない。
「やはりあれは、以前の兄さんではない」
狂壱の動きを観察していたちょうまがぽつりと呟いた。それに反応するリリー。
「どういうことダ???」
「5年前の兄さんは虚弱体質でした。少し陽に当たっただけでぐったりするほどに。それがあんなに人間離れした技や、激しいダンスを踊れるまでに回復するなんて……」
「アヤシイサプリでも使ってるんじゃね???」
「果たしてそうでしょうか。小生は、もっと根源的な何かが変わってしまったのだとみています」
ちょうまたちから少し離れたところでは、Kから放たれている邪を祓う精霊の光が、闇の子供たちを包み込んでいた。Kの眩しすぎる目力に耐え切れずに泣き出す子供たち。
「あなたたちに恨みはないわ。けど観念してちょうだい」
闇の子供たちのチカラが徐々に薄れていく。それに伴い、とみの身体に自由が戻ってきた。
「かたじけない……」
「とみさん、しばらくゆっくりしてて。アタシはもう少し、この子たちを慰めてるから」
その様子を見ていたちょうまは確信した。
――やはりゲームチェンジャーは我々しかいない。
そこで彼は、力に頼らない方法で相手を負かす戦法を考えることにした。
「こうしましょう、リリーちゃん」
ちょうまはリリーに作戦を耳打ちし、1人と1匹は早速それを行動に移し始めた。
まだやれる。――そう念じつつも、ノアの体力は間もなく限界を迎えようとしていた。
ここで動きを止めてしまったら、わたしはどうなってしまうのだろう。目の前の相手の表情は全く変わらない。それどころか、薄笑いを浮かべながらわたしの攻撃をかわしてばかりで、反撃すらしてこようとしない。
「真面目に、戦えっ!」
怒気をはらんだ声でノアが言うと、それとは正反対の口調で狂壱が返した。
「あなたのような美しい方に手をあげるわけがないでしょう」
「ふ!?ふざけるな!」
ねっとりとした言葉を払うかのようにノアが拳を突き出す。狂壱はそれを自身の掌で包むと、彼女を素早く抱擁した。
「あ……」
「今楽にしてあげます」
彼は軽く舌なめずりをすると、ノアの額に接吻をした。彼女のエネルギーが急速に吸い取られていく。数秒も経たないうちに、ノアの全身からは力が抜け、その瞳は焦点の定まらない人形のようになってしまった。
「ノア!」
闇の子供たちの動きを封じることに成功したKが悲痛な叫びをあげた。
「安心したまえ。命までは奪っていない」
狂壱はノアをそっと床に横たえると、Kたちのほうに向き直った。
「こうやって君たち全員が力尽きるまで、僕の愛をレクチャーしてあげよう」
「そんなまどろっこしいことはもう止めにしましょう、兄さん」
ちょうまは狂壱の前に立ちはだかった。
「次は小生が相手です。ただし制限時間は2分。この間に兄さんに勝てなかったら、我々は諦めます。煮るなり焼くなり好きにしてください」
「ちょっとちょうま、そんな約束していいの!?」
「いや、自信はまったくありませんが……」
ちょうまは自虐的に笑うと、ホルスターにしまった銃を床に置き、ポキポキと腕を鳴らした。
「たまには運に賭けるのも、いいじゃないですか」
「では早速始めよう。そして2分後には、お前は僕のものだ」
「小生には兄さんのような持久力はないんで、速攻でいかせてもらいますよ!」
その言葉とともにちょうまはダッシュした!相手の攻撃を避ける前提で動く狂壱の性質を利用して、彼を部屋の中央へ誘導していく。時折、その胸にある薬を取ろうと手を伸ばすが、腕のリーチが足りず思うようにいかない。
「もっと側へ来い、シノブ」
煽るように狂壱が誘う。
「どうした?兄さんが怖いか?」
ちょうまが狂壱との距離を調整しているのには理由があった。
――兄さんはあの弾丸を部屋の隅に捨てた。私はそれを拾い、選手交代のタイミングが来る前に部屋の中央に撒いた。兄さんの瞳にはここのシャンデリアの光は眩しいのか、明かりの下に移動するのを避けているように見えた。だからその下に置いた弾丸を認識することは難しいだろう。ノアさんの例を見ても分かる通り、兄さんに近付き過ぎるとあっという間に終わる。だから好機を見定める前は、つかず離れずを維持しなくてはならない。
ちょうまの狙い通り、部屋の中央に誘導された狂壱はついに弾丸を踏んだ。彼は眩しさに目を細めつつ、その身体のバランスをわずかに崩した。ちょうまにはそれだけで十分なトリガーだった。
「今だ!」
ちょうまは素早く間合いを詰めると、自身の背中にしがみついて待機していたリリーに合図をした。リリーはちょうまの背中から飛び上がって狂壱の顔に覆いかぶさり、彼の視界を奪った!そしてちょうまはその隙に、兄の胸元から出ている薬を掴み、それをしっかりと取り出した!
――この間、1分52秒!
「……僕の完敗だ」
顔についた猫の毛を払いながら、狂壱は小さな声で呟いた。
「無礼を働いたお詫びに、皆さん方には良い部屋を用意しよう。それと夕食も」
「これで脚を休められるわぁ」
「スパシーバ!スパシーバァ!」
Kとリリーは大喜びではしゃぎ回った。
「ちょうま、ありがとう!あなたがいなかったらアタシたち、あなたのお兄さんの手籠めにされてたわ」
「いや、別に兄さんにはそんな気はなかったと思いますがw……まぁ、作戦がうまくいってよかったです」
ちょうまは頭をぽりぽりと掻きながら、照れ臭そうに笑った。
「とみさんとノアさんは大丈夫ですかね?」
「わしならもうなんともないぞい」
とみは明るく返事をすると、自身の腕をぐるぐると回した。子供たちに噛まれた傷は跡形もなく消えている。
一方ノアは、何とか歩けるようになったものの、先程のショックからかまだ言葉を発せずにいた。
「夕食の準備ができる頃には良くなっているだろう」
狂壱はちょうまにそう言うと、ノアのほうをちらりと見て会話を続けた。
「彼女には大変失礼なことをしてしまった。うまく己を取り戻せるといいが」
「兄さん、なぜノアさんにあんなことをしてしまったんですか?昔の兄さんはとてもシャイで、女の子をナンパすることさえできなかったのに」
「『衝動』だ。お前と別れたあの時から、体質が好転してね。と言っても、生身のお前には理解できないだろう」
「体質……その変化のお陰で、こんなに元気になったんですね」
「喜んでくれるのか?次のエサはお前かもしれないのに」
狂壱は意味深く笑うと、ちょうまにダイニングの鍵を渡した。
「僕は先に済ませてくる」