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blog:2026:10:2901
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====== 『罪洗われ、待ち望む』を読んだ ====== 今月はハロウィンに関連して、異文化に触れることで世の中の包括性を再確認する試みをしている。その活動の一つが読書で、今回はキリスト教とゲイの関係性の一面について以下の本を通じて学び、様々な想いを巡らすことができた。 ---- 『罪洗われ、待ち望む』の著者であるウェスレー・ヒル氏はゲイ・クリスチャンで、同性に惹かれること自体は罪ではないと認識しながら、保守的な聖書・結婚理解のもとに司祭として活動している。 本書では、彼の自伝、特に同性愛者としての衝動や葛藤と、保守的な立場に基づいたキリスト教への信仰、そして彼が共感したゲイ・クリスチャンたちの著書の紹介を織り交ぜながら、同性愛傾向のある聖職者としての立場から著者自身の考えを述べている。 聖書の話やキリスト教の教義に関するくだりでは知力を必要とする文脈が見受けられ、専門知識のある方であればこれらの内容を詳しく理解できると思われるが、そうでない方が読んでも、ヒル氏の伝えたいことを理解するのに支障のない構成となっている。 ヒル氏は同性愛者に比較的寛容なプロテスタント(現在は聖公会)に所属している。 彼は同性との性交渉を断ち、独身であり続けることで、いつか同性愛者ではない存在として再生された世界で復活できると説いている。 つまり彼は、同性愛はいつか神によって癒されるものであり、その恵みを享受するために聖職者としての聖さ(きよさ)を探求している段階にある。 ---- 本書を読んだ感想として、キリスト教では同性愛というのは依然としてイレギュラーな要素であり、自然に同性に惹かれる人々にとって、キリスト教の教義は後天的な罪悪感を自らの内に作り上げる一因となっていると感じた。 これはプロテスタントに限らずカトリックでも起きている問題で、昔と今の解釈のすり合わせが幾通りもできてしまうがために、このようなマイノリティの方々のメンタルヘルスに様々な影響を与えてしまっているのではないだろうか。ピューリタン運動によって出来上がったアメリカでの教育を受けた同性愛者の方がこのような本を書かれたことは実に意義深いことだ。 それにしても、ヒル氏のように、体質的にはリベラル、信条的には保守の要素をこれほど複雑に持ち合わせているクリスチャンは珍しい。生い立ちや性的指向に基づく経験、自身と共通する人々の知識の吸収・比較、思索、そして彼の内の大部分を占める信仰、これらの要素に通じ育んできたからこそ、彼はゲイ・クリスチャンとしての自らの整合性を独自の論理的解釈で述べることができるのだろう。 僕は同性愛が人の生き方として間違っていると思わない。なぜなら誰かを好きになるという気持ちは自然であり自由なことで、それは自分以外の存在によって矯正されるものではないと考えているからだ。僕自身、自身と同じインターセックスの特徴を持つ人に惹かれやすいという傾向を持っているから、場合によっては狭義の同性愛に当てはまると考えている。だからヒル氏のことは完全に他人事ではないと感じた。 他方で、異性愛者に向けて意図的にLGBTを流行らせようとする人や、性的に著しく倒錯したライフスタイルを実践している人や、異性のスペースに図々しくも入り込んでそこで優位性を得ようとする人、これらの方々については、僕自身の聖書的解釈では罪のある人だと思っている。だから僕はヒル氏の保守的でプラトニックな同性愛傾向には、非常に感心するとともに共感している。 今後もキリスト教と同性愛に関する議論は続いていき、それはどこかで一定の収束を迎えることになるだろう。人体に関する科学、例えば遺伝学や脳科学などの発展が進むことで、同性愛の仕組みもまた解明され、それはごく自然なこととして認識されるようになる。その時キリスト教は新しいフェーズに移行し、より多くの人にとっての魂の拠り所となるのではないだろうか。 そのような時を待ち望みながら、ひたむきな信仰を続けるヒル氏に僕は深い敬意を覚えた。
blog/2026/10/2901.txt
· 最終更新:
2026/10/29
by
X?-R
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