聖職者に男性が多いのはなぜ?

社会におけるほとんどの重要なポジションは男性が担当している。
それは世の中の労働生産性の大半が男性の労働力を基準として算出されているからだ。
人間の歴史や社会の成り立ちを学んでいれば、これは当然のこととして受け止められる。
男性と女性の身体的パフォーマンスの違いを考えれば、どちらがより高度な実務に向いているかは理解できるだろう。これは女性が高度な実務に向いていないということではなく、あくまで傾向としての話だ。
ではそのようなビジネス的な流れにほとんど縁のなさそうな聖職者にも男性が多いのはなぜだろうか。

例として、世界で信徒数が最も多いとされている、ローマ・カトリック教会の聖職者を挙げてみよう。敬虔なカトリック教徒である彼らは、教皇、司教、司祭に至るまで全て男性だ。そして、ローマ・カトリック教会の聖職者になるには、原則として独身である必要がある。
ちなみに、聖公会やプロテスタントの諸教会では女性が聖職者になれることがある。

ローマ・カトリック教会の聖職者が男性のみである理由は、AI調べによると大きく分けて以下の3つだ。

ローマ・カトリック教会にもこのような経緯があったから、結果的に今も男性が聖職者を担当しているのだろう。これについて異論を述べるつもりは全くない。それがローマ・カトリック教会の伝統であり、そこはそういう組織だと広く認知されているからだ。


それではここからは、聖職者に男性が多い理由を、引き続きローマ・カトリック教会のシステムを例として、僕個人の主観に基づいた解釈を述べていこう。

僕がその理由のひとつとして着目したのは、一般的な男性の生理的メカニズムと宗教における聖性との相関性についてだ。
さらに分かりやすく言うと、彼らは清廉と理性を保つために聖職者となり、修行をしているということだ。その成果が適切に果たされることで、彼らはキリストの優秀な代理となる。仕事ができるのは当然良いが、何よりも重要なのは信仰心だ。だから彼らは己の生理的欲求をコントロールするために、あえて過酷な精神修行(下品な考えやセックスや結婚はNG)を行っている、というのが僕の見解だ。

世の中は誘惑に満ちている。
中でも色欲は最たるもので、これが原因で想いが暴走し、時に嫉妬が起こり、重要な関係性が破綻してしまうことすらある。
だからと言って恋愛を強制的に止めさせるのは、ほんの一部の特殊な人たち以外には非常に酷なことだ。人を惹きつけ惹かれる感情はある意味最も人間らしく、人を人たらしめる根源的なもののひとつであるからだ。

一般的な性機能を持つ男性において、その人にとって明らかに魅力的な対象がすぐ側にいた場合、まずはその対象の視覚的な情報がインプットされる。形状、シルエット、どこが膨らんでいてどこが引っ込んでいるか、それらを引き立てる色なども記憶に残りやすい。至近距離であれば、相手の香りを感じ、一足先に感触を想像することすらあるだろう。
それらに注意を向けた後は、次に自身の内から湧き上がってくるものに対処する。そこですぐさま視線を逸らすか、逆にじっと見てしまうか、たまらず声をかけるか、あるいは堪えきれずにそこから立ち去るか、人によって様々だ。この時点で何も感じず平気な人は、もしかしたら聖職者の適性があるかもしれない。

どんなに物腰柔らかでハンサムで知的な男性であっても、その人にとってドストライクな相手が間近に現れた時、彼の状態は一変する。
視線のパターンが変化し、心なしかテンションが上がる。そして呼吸が荒くなり、隠し切れない表情が見え隠れする。
しかし彼は決定的なことはできなかった。なぜならその時彼は仕事中で、周りに複数の人がいたからだ。
僕はそうやって誘惑に耐えている人を実際に見たことがあるんだ。

とにかく男性として生きるというのは、こうした誘惑に己の魂を晒し続けるということだ。女性ではなんでもないことでも、性ホルモンがテストステロン主体の男性にとっては大変な試練になることがある。込み上げるものがあったらそれを適切に処理し、心身を健全に保つのは立派な自己管理だ。それは男である以上はごく自然なことなのだから。

そのような生理的反応が人並みにありながら、それを抑制して霊的な高みを目指すのは並大抵なことではない。加えて司祭の段階からある程度の権力が付随してくるのだ。そういった欲望も統制して、その他様々な精神的負荷を抱えながら正しい道を歩むことは、正直普通の男性にはハードルが高過ぎる。
だから僕は、聖職者として正しく頑張っている方々には特別な敬意を持っているんだ。


余談だが、女性にも色欲はある。男性の色欲が能動的なものに対して、女性のそれは受動的かつ目に見えにくい形で発揮される。
例えばある教会に、とてもハンサムで人柄も良く、女性信徒たちに人気な司祭がいたとしよう。彼は独身で、女性を情欲の目で見ることはならないと教育されている。だから女性信徒たちは彼を「絶対に襲って来ない安全な対象」として、自身の心の中で思う存分慰みにできる。

この構図、何かに似ていないだろうか。
そう、推し活だ。

まあみんなが平和ならそれでいいんじゃないかな~。