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blog:2026:04:2001

異性嫌悪はいかにして生まれるのか

我々は皆、男女の遺伝子の交わりによって生まれる。我々を構成する半分は父親で、もう半分は母親だ。つまり我々が一番最初に接する異性は、一般的には父親または母親ということになる。中には親と認識できる人がいなかったり、実親以外の人に育てられたりする人もいるが、大体はそんな感じだ。
つまり、世の中の全ての人間の人生には、必ず1人以上の異性が関わっていることになる。

男と女、お互いを尊重し支え合うことで成り立っているこの社会。もしここから一方の性別の人たちが消えてしまったとしたら、あるいはそこにいるはずの異性を認識できなくなってしまったとしたら、我々の生活はどうなってしまうだろうか。
もし男が消えたら、生活に関わる高度なスキルやインフラを維持できなくなり、文明レベルは停滞するだろう。
もし女が消えたら、行き場を失った意欲は歪んだ欲望となって、人類の寿命を確実に縮めるだろう。
どちらか一方を嫌うことは己の半身の否定であり、この世界の半分を否定することにもなる。
そうするのは自由だが、ではなぜ一部の人はそういう思考に陥ってしまうのか。
ちょっとそういうことを書きたくなったんだ。


僕はこの異性嫌悪という感情は、幼い頃の記憶や経験と密接に関わりがあると考えている。
例えば父親がどうしようもない人で、すぐに暴力を振るったり不倫したり家の金を私的に使い込んでいたとする。
または母親がかなり変わった人で、しょっちゅう情緒不安定になったり、子供に対して過剰な気持ちを抱いたり、自身の要求を通そうと理不尽で支離滅裂な言動をしていたとする。
子供にとって初めてのロールモデルとなり得る異性がこんな風だとどうなるだろうか。おまけに物心ついた後に両親が離婚してしまったら?

あるいは、親子関係に特段の問題がないまま成長し、その子供が年頃に恋をしたとしよう。ところがそこでとんでもない振られ方をして、その子の心には一生のトラウマが刻まれてしまった。それは異性とはもう関わりたくないと思わせるような強烈なものだった。
「こんな気持ちになるぐらいなら、同性と一緒に居たほうが(あるいは独りで居たほうが)が楽だ」
そのような結論に至ったとしたら?

さらにその前段階として、第二次性徴期に自身の体が変化することへの戸惑いや抵抗、そして周囲もまた同じぐらいの時期に変化していくことへの驚きや恐れを感じ、それまで慣れ親しんでいたものの見方がガラリと変わりそうになってしまった時、人は成長を受け入れるか、拒絶するか、現状を維持しようとする。そこで現実との折り合いが上手くつかずに、全てを憎むようになってしまったら?

上記のケースはほんの一例で、人は記憶や経験の積み重ねによってその個性が作られていく。遺伝的な要素も当然あるが、出生後の生活環境が後天的な人格形成にかなりの影響を与えている。その中で性に関するショッキングな出来事を経験したり、そういう記憶や経験が蓄積されていくと、その人の中で異性に対して非典型的な感情が芽生えることがある。
それは女性に対する冷笑や不信かもしれないし、男性に対する恐怖や怒りかもしれない。あるいは、相手に対する過度な憧れや嫉妬や依存心かもしれないし、相手と親しくなることでかえって不安を覚えるようになるかもしれない。

いずれにせよ、一度非典型的な感情を味わってしまうと健全な人付き合いはどんどん困難になっていき、付き合う人も自身と同レベルになる。そしてそこでクラスターが1つ出来上がって、その中で格差が生まれる。人は自身と似たような者が集まった時、その中でも背比べをしがちなんだ。自分と他人は別者だから、完全に比べられるものは何もないのにね。
そうして似た者同士で憧れや嫉妬を分かち合い、仲良くなった果てには破滅が待っている。

そう、異性嫌悪と破滅願望は密接に関連している。
己の半身の否定と社会の半分および全ての否定、そのための『リセット』を願い続ける気持ち。
全く哀しいことだ。こんな思想を抱いたまま何十年も生きるなんて耐えられるだろうか?
しかし、そのように色んな人がいて世の中は成り立っている。それはある意味人間らしく素晴らしいことだ。

北風に当たってばかりの人生は辛かろう。
丁度暖かくなってきたことだし、たまには背中だけでも日向ぼっこしてみるといいと思うんだ。

blog/2026/04/2001.txt · 最終更新: by X?-R

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