恋愛という言葉を再認識した
今月の20日に美輪明宏さんが亡くなられたことを受けて、少し美輪さんのことを思い出していた。
最近メディアでの露出機会がめっきり減っていたから心配していたけど、91歳まで生きられたのはまさに大往生だ。
美輪さんは最期に「ありがとう」と仰ったらしい。むしろお礼を言いたいのはこちらのほうで、亡くなられた後もこういう気持ちにさせてくれる美輪さんの存在はつくづく大きいなと感じた。
美輪明宏さんのことをオネエやゲイと認知されている方は多いと思う。でも僕個人としては、美輪さんはそれらの枠に留まることのない領域にすでに到達していたと思うんだ。
美しく強い体に、気品と教養と高貴さを併せ持った繊細な心。これこそまさにノンバイナリーのひとつの完成形ではなかろうか。
そう、僕は美輪さんはノンバイナリーだったと思っている。だからこそ僕はあの人に少しだけ惹かれていたのかもしれない。
美輪さんの訃報を知った後にYouTubeを開いたら、このような動画が目に留まった。
「恋」は自分本位で「愛」は相手本位。それで「恋愛」といい、自分本位になったり相手本位になったりと揺れ動いている最中が「恋愛中」の状態だという。
僕もそう思う。しかし僕は恋という言葉があまり好きではない。具体的に言えば、恋という言葉の後ろに潜む人間の下心が苦手で、相手に振り向いてもらうための駆け引きやさらに踏み込んだ求愛行為そのものが不浄なものに思えてしまう。他人がやるのは気にしないが、自分にはそんなことは出来ない。
恋愛なんてすっ飛ばして、心からお互いを尊重し合える関係性をすぐに築ければいいのに、なんて思ってしまうこともあるが、それは気が早いことだ。この世に存在している以上、まずはお互いを知る期間が必要で、その期間があるからこそ次のステップである「愛」に到達できる。
恋を知らなくても愛を感じたり与えることはできる。
家族や友人やペットなどの、大切な存在を気遣い、慈しみ、守るという気持ち。
誰かの世話をし、自身の納得のいく形でその人を看取ること。
誰かに重要なことを忠告したり、相手のためにあえてその人を突き放すこと。
愛ひとつとってもこのように様々な形があり、世の中にはそこら中に愛が溢れている。だから愛を恐れずに、自然と愛を実践できるようになること、これが人として成長するための一つのメソッドなんじゃないかなと思うんだ。
